今朝起きたら 昨日はまだ開いてなかった百合のつぼみが開いててちょっとげんきになれた 

 

 きのうはまだ ひらいてなかったんだ 

 

 

 母の葬儀も恙なく執り行うことができました 

 にちようびのあさまで いきをしていたのに お骨になっちゃった 

 

 土曜日の朝に病院へ書類を書きに行っていて まだ面会は制限があるのですけど 看護師さんが 会われて行かれますか?と言って下さったので面会させて頂いて 

 

 5月末にお医者さんからは もってあと2か月ぐらい と言われてはいて 

 その時も面会させて頂いていたのですが その時と比べると 

 

 ほっぺたぺちぺち触れながら がんばってね......がんばってねっていうのもおかしいか もういっぱいがんばったもんね もうがんばらなくてもいいのかも って声をかけて帰ってきて 次の日の朝病院から電話がかかってきて 呼吸も脈も弱くなってきているので来てください って ぼくのことばきいて ああ もうがんばらなくてもだいじょうぶなんだっておもったのかなあ 

 

 看取ることができました 最後にありがとうって言えた きこえていたのかはわからないけれど 

 

 母は34年前 ぼくが高校に入学して1か月したところでクモ膜下出血で倒れて 最初は良くて植物状態かもしれないと言われていたのですけど 執刀してくださった先生がすごかったのですね(いまではすごくえらくなってる) 意識が戻って 左半身は麻痺したままだったけど 母もリハビリ頑張って 杖をつきながら歩けるぐらいになったり 

 

 拾骨のときそれがほんとによくわかるというか 大腿骨はすごくしっかりした形で残ってた 頭蓋骨は 手術のときに四角く切って外していて その後も2回硬膜下血腫で手術したから つけたりはずしたりしたみたい 外した骨を丸いシールみたいなので四隅が止めてあった 焼けずに残ってたから丈夫な素材なのでしょうね 

 

 ご近所のボランティアみたいなことをしたりして こんなふうに新聞社の人が取材に来てくれたこともあったりしたんだ この記事のころは一人で行ってたけど りりすけが小さいときはりりすけも連れていってた(大きくなってりりすけの力が強くなってくると ぐいぐい母を引っ張ると転んでしまう危険性があったので りりすけはおるすばんね......ってしてた) 

 

 

 歩けるようになったから起こるいろんなたいへんなこともあったのだけれど...... 

 まわりの たくさんの人たちにささえられて がんばりました 

 家族だけではこんなに頑張れなかったよね 多くの人の支えがあったので 

 あと2か月ぐらい生きられたら喜寿を迎えられたのですけど 

 

 ぼくは なにかできてたかな 

 母が倒れて34年 父が亡くなってからは22年 その間少しでも何かできていただろうか 支えることはできていたのだろうか 

 きっとこれからも自問自答してしまうのだろうし もっとできることがあったんじゃないだろうかと考えてしまうと思う 施設にお願いしたときもそうだったから スーパーに行って これ好きだったなあ とか これまた作ってあげたかったな とか 生きてるときも考えてしまっていたので 

 

 マザコンって思われちゃうのかも 

 でも うちみたいな家族関係はそうはないと思うし わかってはもらえないと思う 

 今でこそヤングケアラーという言葉ができているけど でも 何十年も続くのはそうないと思うので 

 

 ぼくは いろいろ 自由にならないこともあって 

 でもこうやって過ごしていることで すこしは自分も人間として成長できてるんじゃないかなって そう思いながら過ごしてきたけど 

 でも ぜんぜんそんなことなくて 

 だいすきなひとにであうことができても いやなおもいをさせてしまうようなものにしかなっていなくて あのとき ああ ぜんぜんだめなんだなってわかった ちょっとがまんづよくなれてるだけだった がまんするぐらい なにもしなくても だれでもできることで  

 

 これからは 自分の自由に生きていいのかな 

 でも もう何をするにも遅いかな 何かを始めるのに遅いことなんてないって聞くけど それは遅いって言われたことのない人の言葉 

 

 これで とうとう ひとりぼっちになっちゃった 

 

 もうぼくを必要とするひとはだれもいないし これでもういつ死んでも大丈夫なんだなあって思う 

 こんなこと言ったら所謂 無敵の人 みたいに思われてしまうかも でも 

 

 ぼくは だいすきなひとに そのまわりの人たちに 危害を加えるようなことは絶対しません 

 ぼくがだいすきなことで いやなおもいをさせてしまうのだけれど 

 ごめんなさい 

 

 がんばらなくちゃ